#07 「海上の悲劇」—殺人は許せませんからね 名探偵ポワロ

Problem at Sea (12 February 1989)
Hercule Poirot: DAVID SUCHET
Captain Hastings: HUGH FRASER

クラパトン大佐が披露した手品がなにげにすごい。1組のトランプをポワロさんに切ってもらい、それを受け取ってすぐ一番上のカードから1枚ずつ表にしていきます。するとどうでしょう。スペード、ダイヤ、クラブ、ハートの順にAが4枚、次は同じように2が4枚、その次は3が4枚…とカードが順番通りに揃っているんです。ポワロさんが切って、大佐が受け取りカードをめくる。なぜか全部揃ってる。こんなにシンプルで鮮やかな手品は初めて見ました。考えても考えてもタネがわかりません。もう一度見てみようと思い、巻き戻しボタンを押したところで気がつきました。「これ、編集されてるじゃん」と。単純すぎる自分のことが嫌いになりました。



このページは名探偵ポワロ「海上の悲劇」を観た方に向けて書かれていて、事件の核心、犯人、動機、結末、オチ、ギャグなどに触れます。ですのでドラマ本編をご覧になったあとにお読みください。「24羽の黒つぐみ」にもちょっとだけ触れています。
このブログがはじめての方は 「ポワロと灰色の脳細胞」について からぜひ。 

あらすじや解説はこちらでどうぞ。
●名探偵ポワロ徹底解説
●「名探偵ポワロ」データベース
●旅行鞄にクリスティ


走って逃げる犯人

“大勢の人の前でポワロさんに罪を暴かれた犯人が、切羽詰まって走って逃げ出す”っていうのが「名探偵ポワロ」の王道パターンになってます。「24羽の黒つぐみ」の犯人は走る直前に警察の包囲に気づいて観念しましたが、今回のクラパトン大佐はついに駆け出しました。狭い船室だったので3歩だけ走ったところであっけなく捕まっちゃいましたが。今後、もっとダイナミックに逃走する犯人は現れるんでしょうか。乞うご期待。


ポワロおじさん怖い

歌声の美しいマドモアゼル・モーガンの姪イズメニちゃん。ポワロさんに人形を貸して欲しいって頼まれてたときの顔がめっちゃこわばっててかわいそうでした。そりゃあんな特殊なビジュアルのおじさんに話しかけられたら緊張するよね。チビッコの目には、ハゲで髭でまゆ毛がつり上がったおじさんとしか映らないでしょ。おしゃれかどうかなんて問題じゃない。そんなポワロさんがあの満面の笑顔だもん、逆に怖いってば。あそこで泣かなかったイズメニちゃんはえらいよ。人形の声を演じ終わったあとは笑顔になって、ポワロさんとも打ち解けたみたいで安心しました。


本日のおしゃれ

白いブランニュースーツがお披露目されましたね。細い縞模様のある綾織りでとても高級感があります。例によってベストは同じ生地のものにしたりペイズリー柄の青いベストを合わせたりして、違ったスタイルを楽しませてくれました。



グリップが望遠鏡の杖も初登場。甲板から月を眺めるときに活躍してました。この杖はプライベート用みたいですが、前回登場した藤グリップの杖と比べるとカッチリしたフォルムだからフォーマルな場でも使えて、タキシードと合わせた姿がクールです。

帽子は2種類、どちらもストローハットでした。山高帽のようにトップが丸くつばが広いものと、ポークパイ型のもの。ポワロさんはウール素材の帽子もストローハットも、中折れ型はお好きじゃないようです。これまで被っているのを見たことがありません。

あの狭い船室で長いこと過ごしてるのに、ポワロさんのお召し物はいつもシワひとつなくピシっとしています。毎日の手入れがそれはそれは大変でしょうね。豪華な船旅は乗客同士の人間関係が死ぬほどめんどくさそうですが、身だしなみのための労力もハンパない。毎晩タキシードに着替えなきゃいけないし。そりゃストレス溜まるよな。乗客の人たちはクラパトン夫人だけじゃなく、みんななんだか嫌味で不親切な印象でしたが、あんな環境ならイライラして意地悪くなっちゃうのも仕方ないのかもしれませんね。船旅ってしたことないんだけど、このエピソードを観た限り僕には向いてなさそうです。



芸は身を助くのか

腹話術でアリバイ工作するって素晴らしい。よくぞやってくれました。ふつうの人には絶対真似できないし、思いつきもしないトリックです。で、腹話術を使うっていうアイディア自体もすごいんだけど、キティとパメラの言動を完全に読んで計画に取り込んでたのがマジすごい。その前後の演技もめっちゃ自然だったし。さすが芸人さんです。天晴れ。

で、なんでポワロさんにバレたんだっけ?なんでポワロさんはクラパトン大佐が腹話術師だってわかったんだっけ?そこんところがうやむやでイマイチすっきりしません。明らかな証拠は見つかってないし、犯行を示唆する出来事も起きてない。大佐に動機はあるけど怪しいそぶりは見せてない。解決のきっかけになるものがどこにも見当たらないんです。緻密な推理というよりはただなんとなく勘が冴えた、単なるまぐれ当たりだったって印象で、今回のポワロさんはあんまりカッコよくなかったな。人形を使った謎解き演出も過剰な感じがして、むしろ推理自体の物足りなさが際立っちゃった気がします。

本日の報酬

今回は船長から直接依頼がありました。あちら側には“エジプト警察の干渉は避けたい”っていう弱みがあったので、それなりの額の請求をしても文句はいわれないはず。船を保有する会社なのか、運行を管理する会社なのかわかりませんが、請求通りの報酬を支払ってくれるでしょう。しっかり利益を確保できそうです。 

甲板でのやりとり

「殺人は許せませんからね。…失礼」
最後にいった決め台詞。ポワロさんの信念が一言に凝縮されているようでとても力強いです。シリーズを通してポワロさんがそう考えていることは十分伝わるし、その信念を基に事件を解決する姿も大好きです。ただ今回は引っかかります。

ポワロさんの決め台詞は、マドモアゼル・エリーの言葉を受けたものでした。
「あなたが演じたのは残酷で卑劣なトリックですわ」
ポワロさんがみんなの前でクラパトン大佐の殺人を暴き、彼に恥をかかせたことへの批判でした。殺人についてではなく、ポワロさん自身の行動—殺人者を見せしめにするような行動—についての批判です。その本質は“個人が犯罪者を裁いて罰を与えることは是か非か”という問いでした。

「名探偵ポワロ」では、ポワロさんが関係者全員を一同に集めて謎解きを披露し、犯人を暴くというクライマックスが定番です。つまり“個人が犯罪者を裁いて見せしめにする”場面が繰り返し描かれていて、観客はそれを楽しみにしています。でも、もし実際の警察が同じことをしたら大問題になるでしょう。容疑者をさらし者にすることは重大な人権侵害です。観客はそんなことわかってます。現実にはナシなことでもフィクションの中でならアリにできるし、それによって生じるあれこれをエンタテインメントとして楽しんでいます。現実には怒らないことでもフィクションの中でリアルに感じられればそれでいいんです。

現実にはナシなことを楽しいエンタテインメントに仕立てるポイントは、その問題をあえて無視することだと思います。下手に現実の問題を持ち出すとシラけてしまうので、知らん顔するのが一番です。例えば「ルパン三世」は大泥棒ですが、その善悪には触れないから楽しく観られるんだと思います(まぁ銭形警部はいつもルパンを断罪してますけど)。もし“他人の財産を奪うことは是か非か”なんて真剣に問題提起されたら興醒めでしょ?今作もそれと同じです。マドモアゼル・エリーにあの批判をさせるべきではなかった、と思っています。

もし物語の中で現実の問題に触れるなら、その答えを物語の中で示す必要があります。じゃないと観客はモヤモヤしちゃってフィクションに没頭できなくなるからです。ポワロさんの「殺人は許せませんからね」という回答はまっとうな意見のようですが、実は問いにしっかりと応じてはいません。問われていたのは殺人についてではなくて“ポワロさん自身が犯罪者を罰していいの?いや、ダメなんじゃない?”というとてもパーソナルな問題でした。ポワロさんはそれに応えることなく、その場を去ってしまいました。

答えが社会的、倫理的に正しいものである必要はないし、冗談やギャグにしてもいいと思います。この物語の中だけで通用する理屈があれば、それでいいんです。「名探偵ポワロ」の別のエピソードでは“法で裁かれない殺人者を個人が罰することは是か非か”という難問にポワロさんが死ぬほど葛藤します。そのプロセスに説得力があって、心に刻み込まれる素晴らしい結末を迎えました。屈指の傑作だと思います。ポワロさんが出した答えが正しいかどうかは、まったく問題じゃありません。そして、あんなに重厚にしなくても問いには応じられるはずです。軽く描いても全然いいと思います。少し前の回で出てきた「ポワロは風邪を引きません」とか「私の完璧な歯をいじるのは冒涜です」みたいなポワロ流のトンデモ理論を振りかざして、面白おかしく逃げ切ったっていいじゃないですか。

最後の甲板の場面、いらなかったな…。

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